石原裕次郎ファンの集い

ユージロ会 (全国ネット)

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 Yujiro 回想

石原裕次郎の真実
~ その素顔と永遠の愛 ~

= 2016年7月30日(土)BSフジ放送 =
  • 2016/7/17 横浜市鶴見区曹洞宗大本山 総持寺 700人
    石原裕次郎 30回忌法要 石原 まき子
    芸能リポーター 前田 忠明 石原裕次郎を数多く取材してきた。
    インタビュー 東海林 のり子
    石原裕次郎 歌手 俳優 エンターテイナー 社長 「病」との闘い
    初めてまき子さんが裕次郎さんに会った時の印象、後ろ姿がかっこよかった。
    初めての出会いは、昭和31年4月14日 日活撮影所第5ステージ
    裕次郎さんは、北原三枝さんが大好きだった。顔を合わせなかった。
    北原三枝主演映画「きみの名は」をみてファンになっていた。
  • 1956年、兄慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」が映画化される。
    当時21歳慶應大学の学生だった。若者言葉の指南役として映画に参加
    水の江瀧子の目にとまり出演が決定 主演 長門裕之 南田洋子
  • 次の作品が「狂った果実」1956年公開 脚本 石原慎太郎
    水の江瀧子プロデユーサー 石原裕次郎と北原三枝で映画を撮りたい
    芸能リポーター 前田忠明が当時の日活のトップスター同士の恋愛を振り返る。
    当時スター同士の恋愛はご法度
    日活は裕次郎をタフガイと命名、日本中に石原裕次郎ブームが巻き起こった。
  • 1960年1月 アメリカ婚前旅行
    芸能界史上初 空港での記者会見
  • 芸能界史上2回目も、裕次郎と三枝の結婚記者会見 時代の寵児だった。
    昭和35年12月2日 結婚 力道山 長嶋茂雄 王貞治 らが出席した。
    結婚と同時に女優 北原三枝は引退を決意
    女優を続けたかったのは事実・・・・
  • 1961年1月 スキー場で右足を複雑骨折 入院中に会社設立を決意
    裕次郎は理想の映画へと動き出した。
  • 1963年 石原プロモーションを設立
    株式会社 東京ビルデイング 取締役社長 石原裕次郎
  • 1967年5月 映画「黒部の太陽」の製作を発表
    巨大な「壁」 五社協定 東宝 松竹 大映 東映 日活
    今まで見たことがない苦悩する裕次郎
  • 1968年1月 映画「黒部の太陽」が完成 観客動員数 733万人
    興行収入 16億円 1968年 最大のヒット
  • 1970年に公開された映画「ある兵士の賭け」が興業的に失敗
    5億円の負債 石原プロ倒産の危機
    それを救ったのは、エンターテイナー 石原裕次郎の才能だった。
    「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜も有難う」 「二人の世界」
    が石原プロを救った。映画製作費が出た。
  • 1980年12月「ブランデーグラス」のヒットに・・・
    タンゴ調の難しい歌
  • テレビドラマへの進出 1972年「太陽にほえろ」がスタート
    最高視聴率は40%を記録
  • 1976年「大都会」シリーズがスタート
  • 1979年「西部警察」シリーズがスタート
  • 石原裕次郎の人生には常に「病」がつきまとっていた。
    1978年12月「舌がん」を発症 43歳
  • ハワイでヨットに乗ることが大好きだった。
    一にヨット、二に車、三、四がなくて五に女房と周辺に漏らしていた。
  • 1981年4月25日 緊急入院 解離性大動脈瘤
    当時手術の成功率は3%といわれた。
    6時間半に及ぶ大手術は成功「奇跡の生還」と報じられた。
    マスコミによる仁義なき取材合戦 芸能リポーター 前田忠明
    東京・信濃町 慶應義塾大学病院前
    日本中のマスコミが集結 様々な手で入院中の撮影を試みた。
    マスコミ戦争 手術から45日 病院の屋上に姿をみせることになった。
  • 1981年6月21日 「奇跡の生還」
    路上にクレーン車を置いて撮影を試みた。(フジTV)
  • 1981年9月1日 退院 最後の闘いが待っていた・・・
  • 1987年4月ハワイから帰国後に入院
    カメラが捉えた生前最後の裕次郎
  • 1987年7月17日 午後4時26分 永眠(享年52)
  • 2016年4月 「石原プロ次世代スター発掘オーデイション」

あのスターにもう一度逢いたい 裕次郎
~ みんなが憧れた「男気と優しさ」~

= 2016年7月12日(火)BS11放送 =
  • 「狂った果実」昭和31年(1956)公開で俳優デビュー 石原慎太郎 原作
  • 夕陽の丘 昭和38年(1963) 石原裕次郎 浅丘ルリ子 最大のヒット曲
    ♪夕陽の丘の ふもと行く バスの車掌の 襟ぼくろ わかれた人に 生き写し
    なごりが辛い たびごころ
  • 映画カメラマン 金宇 満司(かなう みつじ)
    昭和46年(1971)石原プロモーションに移籍以降 石原プロモーションカメラマンとして数多くの作品で活躍する傍ら常務として石原プロの経営を支える
    「黒部の太陽」昭和43年(1968)公開 事故で親指を骨折した石原裕次郎さんから絶大な信頼を得てさまざまな作品を撮影した「栄光への5000キロ」昭和44年(1969)公開 撮影 金宇満司
  • 石原家の墓参り 北海道へ墓参りに行ったときの映像
  • 「嵐を呼ぶ男」昭和32年(1957)公開
  • 音楽デイレクター 高柳 六郎 が語る 歌手 石原裕次郎
    テイチクレコードの音楽デイレクターとして石原裕次郎の作品をいくつも手掛ける最初に担当した曲「忘れるものか」
    名曲「ブランデーグラス」秘話
    西部警察PART Ⅰ 第48話「別離のブランデーグラス」より
    ♪これでおよしよ そんなに強くないのに 酔えば酔うほど 淋しくなってしまう
    涙ぐんで そっと時計をかくした 女ごころ 痛いほどわかる
    指で包んだまるいグラスの底にも 残り少ない 夢がゆれている
    西部警察の放送の中で歌ったことによりヒットした
  • 妻 まき子さんが天国の裕次郎さんに送った言葉
    大きい枝に 小さく咲く花が好きだ たとえば 桜 パッと咲いて パッと散る
    武士のように爽やかで 散りながら花びらが舞う姿はまさに花吹雪と呼ぶにふさわしい美しさがある
    美しき者に微笑みを 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く